2016年夏に翻訳出版した『ユング 夢分析論』(みすず書房)。このたび、おかげさまで重版されることになりました。初版部数が比較的多かったにもかかわらず、多くの方に手にとっていただけて、翻訳者冥利に尽きるとはこのことです。
この本はぼくにとって「最初のユングの翻訳書」でした。夢分析に関するユングの論文集を出版するというアイディアは、ある朝、いくつもの偶然が重なって(「布置されて」というとよりユング派っぽい)、とつぜん空から降ってきたものです。無名の心理療法家のこの大それた思いつきに理解を示し、その実現に尽力してくれたみすず書房、とりわけ編集部のT氏には感謝しかありません。
そしてこの本の出版は、大袈裟に言うとぼく自身の人生の転機となりました──本当に大袈裟な言い方だけど、本当にそうなのだから仕方ない。本書のサンプルが自宅に届いたその次の日の朝、ユング派の分析家の訓練を受けること、つまりチューリッヒに留学することをはっきりと決めてしまったからです。いまから振り返ると、随分とあっさり決めてしまったものですが、人生の大きな決断というのはえてしてそういうものなのかもしれません。
チューリッヒに留学するには、その前に日本のユング派の協会(AJAJ)で分析家の候補生として認定される必要があります。もちろん、それにはけっこう厳密な審査があるのですが、『夢分析論』の見本を受け取った3日後が、なんとその申請の締め切り日だったのです。「…急げばギリギリ間に合うんじゃないか」。大慌ててで書類を用意し、それをかばんに詰め込んで締め切り当日の夜に郵便局まで自転車を飛ばしたのでした。こういうタイミングでもなければ、きっと締め切り日の存在さえ見過ごしていたでしょう。布置はもうひとつ待っていたというわけですね。
ちなみにユング派分析家の訓練過程の中間試験には「夢と心理学」という科目があります。ぼくもこの試験を11月に受験し、とてもよい評価をいただくことができたのですが、本書を翻訳した経験のおかげでこの科目に関しては特に自信をもって臨むことができました。とは言うものの、「じつはぼく、夢分析に関するユングの論文集の日本版の翻訳者なんですよ」と試験官の先生に打ち明けたのは評価を聞いてからのことです。落第してたら恥ずかしくて言えないですものね、そんなこと。
ユングの心理学に基づく夢分析に関する書物は膨大にあります。一方で、ユング自身は心理療法における夢分析を主題とする論文をじつはたったの3本(!)しか書いていません。「夢分析の臨床使用の可能性」「夢心理学概論」「夢の本質」。この3本の論文こそ、ユング派の夢分析の出発点であり、それと同時にそこでユングが示した高い水準こそが私たちユング派の臨床家にとっての大いなる目標なのです。この3本の論文に加え、ユングが死の10日前まで執筆しつづけていたという論文「夢と象徴解釈」、そしてユングがフロイト派だった時代に書いた2本の論文を収録して完成したのが本書『ユング 夢分析論』です。フロイト派時代の2本については収録すべきかどうかそうとう迷ったのですが、この機会を逸すると二度と翻訳されることはないのではないかとの恐れから、あえて含めることにしました。振り返ってみると、やはりそう決断してよかったと思います。自分自身が後に批判することになるフロイト派的な夢分析の技法を、ユングが本気でものにしようとしていたことの大切な証なのですから。
最後によいお知らせを。これまで出版した翻訳書が好評をいただいたおかげで、ユングの翻訳プロジェクトは今後も継続していくことができます。訳文のストックはある程度できていますので、今後は1〜2年おきに1冊ずつのペースでお届けできるかと。どうかお楽しみに。「他人の本の翻訳だけじゃなくて、自分の本も書きなさいヨ!」との叱咤激励は各方面から頂戴しているのですが(ごめんなさい)、分析家の訓練期間は翻訳書の出版を優先したいと考えています。某小説家がかつて述べたとおり、翻訳とは「究極の精読」であって、その濃厚な経験が人生に影響を及ぼさないはずがありません。その濃厚な経験を、ぼくはもう少し必要としているようです。